1. 雨の樹







──「握手がいまの接吻みたいに、
効果があった時勢だったんだ。」




 僕は一体どれほどの距離を歩いて来たのだろう。
 たったひとりで任務をこなすのは、もう何度目かも知れない。峠をひとつ越え、そこでたいして強くもない鬼たちを狩り、最後の鬼の頸を斬り落としたところに、雲間から朝日が差した。夕刻からこの任務に出向いていた僕にとってこれらは実践形式の稽古のようで、僕は丁寧に血を払い、刀を鞘に納めた。ちょうどいい運動をした。そんなふうな気持ちだった。それから、塵になってゆく鬼を眺め、何もかもが空気のように消えてなくなると、安堵と疲労の混じったため息を吐いた。

 任務の内容は、そう難しいことではなかった。困難なのはその立地だった。辺り一面、高く聳える山々に囲われたこの地には鉄道など通うはずもなく、馬車でさえ嫌がるほどだったため、自力で向かうほかに手段がなかったのだ。道中に立ち寄った幾つかの集落には数えられるほどの民家があったけれども、そのほとんどが先刻僕が斬った鬼たちによって家族のひとり、或いは全員を失い、深い悲しみに暮れていたし、返り血を浴び、戸口をぽっかりと開いたまま、茅葺きの家が永遠に戻らない主人の帰りを待ち、静かに佇んでいた。

 その光景は、僕の家族を想起させた。
 父さん、母さん、そして、兄さん。

 ふと、鼻先に雫が当たる。見上げれば、暗く厚い雲が空を覆い尽くし、次の瞬間、激しい風雨が僕を襲った。隊服のわずかな隙間を縫って雨水が侵入し、足袋は泥に塗れ、僕はあれこれと感傷に浸るのをやめ、積み重ねた戦闘の疲労のために鉛のように重くなった脚を引きずって歩いた。



 豪雨の山道を暫く歩いていると、道の向こうから誰かがやって来るのが見えた。かろうじて朝だとわかるほどの薄ぼんやりとした景色のなか、白い、針のような雨が僕とその一帯を突き刺して、僕は目を凝らした。そしてようやくその姿をとらえると、それは深紅の傘を差した、女の子だった。はっきりとは認識できないが、たぶん、背格好は僕と同じぐらいだ。肩には僕の鎹烏、手には一本余計に傘を持っている。

「鬼狩りさま」

 女の子は傘を傾け、僕をその下に入れた。
 入りきらずに溢れてしまった着物の肩が、垂れた裾が、雨に濡れて色濃くなる。彼女は気にも留めない様子で、手に持っていたもう一本を僕へと差し出した。

「わたくしは、この先の、藤の花の家紋の家の者でございます。貴方さまにお仕えする、お話しのできる烏より事情を伺い、お迎えに参りました。よろしければ、こちらの傘をお使いください。ご案内いたします」

 鎹烏が嘴で濡れた羽の毛並みを整え、僕の肩へ乗り移る。

「要らない。もう、充分濡れてるから」

 僕は目の前に立ち止まる彼女を追い抜いて、先を歩いた。

「でも…」
「それより、早く案内してよ」

 彼女は短い返事をして、下駄を鳴らし、慌てて僕の前へ回り込んだ。水溜りを踏み、足袋や着物の裾に泥が跳ね、汚い染みを幾つも作っていた。僕は先導する彼女の一歩後ろに付いて、何も考えず、ただ歩いた。深い紅色の傘からのぞく白い頸や、そこに薄らと垂れ下がる後れ毛、丸みのある華奢な撫で肩、僕に渡そうとした傘の先が下駄の音に合わせて弾むように跳ね動くのをぼうっと見詰めながら、雨は相変わらず僕を刺していた。



 鬱蒼とした森の中で雨は遠く、地鳴りのように響いた。枝葉が降り続く雫によって不規則な音を奏で、それらの旋律に気を取られていると、樹々の間からおおきな屋敷が現れた。
 藤の花の家紋が刻まれた門の前には小さなお婆さんが立っていて、お婆さんは僕を見るなりちょっと驚いた様子で目を見開いてから、「いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。ご無事で何よりです」と律儀に挨拶をし、労い、深々とお辞儀した。
 女の子の姿は、もうなかった。

「お食事はいかがいたしますか」
「おなか空いてないんだよね」

 僕はもう一刻もはやく横になって、眠ってしまいたかった。
 正直にそれを伝えるとお婆さんはすぐに客間へ先導して蚊帳を吊り、布団を敷いてくれた。僕は用意された浴衣に着替え、風呂に入り、客間へ戻ってゆっくりと手脚を伸ばし、布団へ潜った。


「失礼いたします」

 先刻道案内をしてくれた、あの女の子の声がして、僕は体を起こした。

「なにか、用」

 短く答えた後、遠慮がちに襖が開いた。
 彼女の摺り足に、畳の目が、僅かに軋んだ音を立てる。

「僕、もう寝るんだけど」
「それは、あの、おやすみのところを、大変申し訳ありません」

 彼女は弱々しい声で謝罪しながら、正座して、湯のみ茶碗を載せた盆を布団の傍らにそっと置き、僕の枕元へと寄せた。茶碗になみなみ注がれたそれは、ただの白湯だった。

「就寝前に飲むと、お体が温まります。ご不要でしたら、そのまま置いておいてください」

 最後に「おやすみなさいまし」と消え入るような声で僕に伝え、部屋を出ていった。
 僕は白湯をひと口飲んだ。それは井戸水とも、川の水とも違う、繊細で角のないまろやかな口あたりをしていた。土臭さや生臭さなどは微塵も感じられず、ひと口含んだだけで体の芯から心地よく温まってゆくのが分かる。ただの水であるはずなのに、何が違うのだろう? この土地に流れる水なのだろうか? それとも彼女が特別な方法でこれを沸かしてくれたのだろうか? さまざまな疑問が浮かんでは、睡魔に掻き消されてしまう。

 布団に横たわり、すこしずつ離れ行く意識に身を委ね、重くのし掛かる目蓋に視界をすっかり遮られるまでの間、僕は彼女の手ばかりを思い返していた。豪雨の中で傘を手渡そうとしたとき、襖を開けたとき、盆を寄せたとき、彼女の控えめな白い手は乾燥し、関節には深い皺が刻まれ、粉を吹いていた。まだあどけない少女の顔をしているのに、手だけが不釣り合いなほど老けこんでいたのだ。柱の誰だったか、また何の話をしていたのかも忘れてしまったけれど、女の年齢は手に現れる、と、いつかの会話を思い出して、あの子は、ともすると、僕よりもだいぶん年増なのかもしれない。そんな下らないことを考えながら、眠りについた。







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武満徹: 雨の樹 素描Ⅱ
2020.02.06