2. 水の反映







──僕は感じた、暗い心のどこやらに、
こうした彼女のふるまいの
明るい反射が届くのを。




 明け方に就寝したというのに、僕は昼前にはもう目を覚ましていた。いつも早朝から下級隊士の稽古をつけているから、いくら床に就くのが遅くなっても明るいうちに目覚めるのが習慣になっているのだ。
 体を起こし、崩れた浴衣を直していると、お婆さんがそそくさと僕のいる客間へやって来て雨戸を開け始めた。

「よく眠れましたか」
「あんまり」
「今日は、良いお天気になりましたよ」

 ほとんど真上に位置した太陽がじりじりと庭を照らし、砂の地面が妙に白っぽく浮き出しているように見える。お婆さんは雨戸を戸袋へ仕舞い終えると、「お食事にいたしましょう」と微笑んで、すぐに膳を立てた。僕はすこしのあいだ、外の日差しに目が眩んだ。


 朝食と昼食とを兼ねたそれは蒸し直した白米に焼き魚、煮物の質素な食事で、不味くはなかったけれど極上というのでもない。味付けはどちらかというと少し濃いぐらいだったが、だからと言って食べられない訳じゃない。年をとると味覚が鈍くなると聞いたことがあるから、おそらくこの食事はお婆さんが作ったものだろう。ごくごく平凡な、家庭的な味だ。

 寝ぼけた頭で想像しながら湯呑みを啜れば、食前の白湯や食後に出された煎茶は、就寝前に女の子から差し出されたものとはまるで別の飲み物のように感じられた。その質は、僕が普段、任務の合間や帰り掛けに立ち寄る食事処で飲むような粗茶と同じだ。これは井戸水に違いない。
 薄らと顔を顰め、黒ずんだ天井の角を見、考えてみれば、今日は、起きてからまだ一度も彼女の顔を見ていない。

「……昨日の子は」
「はあ、は裏の泉へ、水汲みに出掛けております」


 
 僕はこのとき、はじめて彼女の名前を知った。



***




 食事を終えた僕は、お婆さんに泉のある場所を聞き、そこへ向かうことにした。
 聞いたところその泉までは一本道であるようだから、たとえ行き違いになってしまっても問題はない。僕には多からず休息の時間があるのだし、刀さえ持って行けば、森での散歩は、いい気分転換にもなる。それに、理由は分からないけれど、なんとなく、昼間の陽光の下で影を作る彼女の顔を、この目で見たいような気もする。


 けもの道のような頼りない林道は、両側に重力に逆らうように細く長く伸びた樹々が無数に聳え、それらの枝葉が幾重にも重なり影を落として、昼間なのに陰鬱な薄暗さを持っている。昨日の雨のせいで土が緩み、慎重に踏み締めて行かなければ、不意に足を滑らせてしまうかもしれない。僕はひんやりとした空気を体の奥深くまで吸い込み、歩を進めた。



 二十分ほどかけて森の奥地へ進んだところで、開けた場所に出た。ゆっくりと近付き、樹の影に回る。そこから少しばかり顔を出すと、微風を受けて細かく揺れる水面が見えた。光芒のように降り注ぐ陽光が泉へと凝縮され、水面に反射してきらきらと輝いている。昨夜の豪雨にも関わらず、水は底が見えるほどに青く透きとおっていて、水位が増した感じもない。あまりの神々しさに、僕は息を飲んだ。


 泉のほとりに、は居た。

 水汲み桶を大小ひとつずつ足元に置き、たすきを掛けて袖を短くし、裾を捲り上げて、まるで洗濯でもするような姿勢でしゃがみ込み、揺れる水面を愛おしそうに見詰める。白くふくよかな腕やふくらはぎが柔らかく輪郭を崩して、水汲み桶を沈め、掬い上げる。
 桶の水がいっぱいになり水汲みを済ませると、彼女は自らの両手を泉に浸した。手のひらを窪め、透明な水をそこに溜める。そうっと口元へ運び、飲み干していく。唇の端から垂れた水が、顎を伝って滴り落ちる。

 僕はの挙動に目を離せなくなっていた。顔を洗い、顳顬のところから垂れた後れ毛を耳に掛ける仕草、水のつめたさに悴んでしまった手に、はあっと息を吹きかける仕草。それらを彩る赤く切れた指先。
 水面がまた、しずかに揺れる。
 彼女の指先から、波紋が広がる。


「昨日の白湯は、ここの水?」

 僕はほとんど無意識に、に話し掛けていた。彼女はひどく驚いて、すっくと立ち上がり、着物の裾を叩いて直した。その拍子に、水の溜まった桶を傾け、倒した。零れた水はすぐに苔だらけの地面に吸収されていく。

「あーあ」
「……申し訳ありません」
「べつに、謝ることないよ」
「……」

 僕は彼女の隣りにしゃがみ、水を汲みなおした。その間、彼女は困惑して、訳も分からないまま、何度も僕に謝罪した。


「これ、屋敷に持って帰ればいいんだよね?」

 右手に大きい方、左手に小さい方、水汲み桶の持ち手を握る。中身は透明なのに、ずっしりと重い。
 さて、と持ち上げれば、彼女が大袈裟に手を振る。

「あの、大丈夫です。わたくし一人で出来ますので」
「君が持ったらまた傾けそうだから、僕が持って行く」
「でも、鬼狩りさまはご休息の身でいらっしゃいますから……」
「それなら大きい方を俺が持つから、小さい方を持ちなよ」

 半ばうんざりして語気鋭くつよめると、彼女は俯き、小さい方の水汲み桶を握った。



 この泉は湧き水が溜まったもので、一年中水質が良いために、飲めばとても美味しく、気分が和らいで、優しい気持ちになります。久しぶりのご来客でしたので、昨夜は是非鬼狩りさまにも飲んでいただきたいと思い、お部屋へお持ちしたのです。

 そんなふうなことをは気弱な声音で僕に言い、彼女の母がまだ生きていたとき、寝る前にはいつもそうしてもらっていたのだと、辿々しく思い出話を語った。僕は歩く速度をなるべく彼女に合わせながら、頭の後ろからきこえて来る声に耳を澄ませた。

「美味しいことはわかったけれど、僕には、自分が優しい気持ちになったかどうか、よく分からない」
「鬼狩りさまがそう仰るのなら、そうかもしれません……」

 彼女は反論せず、それっきりこの話については口を閉ざした。


は帰ったら、このあとは何をするの」
「朝干した洗濯物を取り込んで、畳みます」
「そう。じゃあそれが終わったら、この水でお茶でも淹れてよ」
「はい。あの、わたくしの名前……」
「え? ああ、さっきお婆さんから聞いた」
「……鬼狩りさまは、」
「時透無一郎」
「……時透さま」

 はぽつりと一度、震える声で恥ずかしそうに僕の名前を呟いた。それからまた黙って僕の後ろを歩いた。







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C.Debussy: Reflets dans l'eau
2020.02.12