3. 雲
──きみの眼、きみの手、きみの乳房
きみはひとりの雙子だ
屋敷の内外を穏やかな風が吹き抜け、開け放した障子の戸が時折かたかたと心地よい音を立てる。上空には綿を散らしたような小さな薄い雲が気紛れな風に身を任せ、悠然と泳ぎ、僕たちを見下ろしている。庭の物干竿に吊された長襦袢や手拭いが、やわらかく揺れる。
は風に靡くそれらを追いかけるように手を伸ばし、傍らに置かれた大きな籠の中へ、次から次へと洗濯物を放り込んでゆく。
僕は彼女に淹れてもらった煎茶を啜りながら、黒文字で羊羹を切り分け、ひと口齧り、ぼんやりと彼女の後ろ姿を眺めていた。
こうして朝から晩まで、任務も稽古もせず、平穏なときを過ごすのはいつ振りだろう? 思い出そうとするけれど、記憶が曖昧で、うまく思い出せない。少なくとも家族が皆元気に生きていた頃には、こんな光景が殆ど毎日、あったような気がする。
「庭を眺めるのでしたら、客間からの方が景色が良いですよ」
不意に声を掛けられ、彼女と目が合う。
君を見ていたんだ、とは言えない。
「景色が見たい訳じゃないから」
「はあ、そうですか」
僕は気を紛らすため、黒文字で切った羊羹をもうひと口食べ、ゆっくりと伸びをしてから背中の後ろに手をついて、目を閉じた。縁側に降り注ぐ日差しはあたたかく、午睡に丁度良い陽気だ。
少しの間目を瞑ったままで居ると、
が此方へじっと視線を投げているのを感じた。目を開けて、視線を投げ返す。彼女は山のように洗濯物の入った籠を手に持ち、ひどく驚いて、目を逸らすことも出来ずに顔を赤らめその場に立ち竦んでしまった。
「人の顔、じろじろ見ないでくれる」
「ごめんなさい……」
は弱弱しい声で謝罪すると、僕の後ろの畳の間に寄せた洗濯物を広げ、一枚ずつ畳み始めた。
僕はなんとなく昔を思い出して、懐かしい気持ちになった。両親が居た頃には、これは確か母さんの役目だったし、兄さんと二人の頃は、僕の役目だったように思う。
彼女の作業がひと段落したとき、僕の湯呑みは既に空になっていた。それに気づいた彼女は綺麗に畳まれた洗濯物を抱えそそくさと立ち上がり、「お茶をお持ちします」と部屋から出て行こうとしたので、僕は彼女に「君の湯呑みも持って来ればいい」と伝えた。
「此処で少し話をしよう」
は言われた通り、急須と一緒に自分の湯呑みを持って来て僕の隣りに腰を下ろした。暫く沈黙が続いた後、二人で殺風景な庭を観賞しながら、僕は幾つか彼女に質問した。それらはおもに彼女の家族や彼女自身のことだったが、彼女は嫌な顔ひとつせず、僕の質問に丁寧に回答した。
「
家は、代々藤の花の家紋の家だったのではありません。わたくしの父が鬼殺隊士としてこの辺りの鬼狩りをしていた頃には、この家のほかにも多くの民家があり、女性たちが水汲みに出掛ければ、会話に花が咲いたほどでした。しかしそれも長くは続かず、父が鬼に喰われてしまってからは、危険な土地だとして去ってゆく者が増え、とうとうわたくしたちの家だけになってしまいました。祖父は随分と前に亡くなり、母も病に倒れ、三年前に死にました。わたくしは祖母と二人きりでこの地に住み続け、かつて命を懸けて鬼から守ってくださった鬼殺隊士の方々へ、微力ながらも何かお手伝い出来ることはないかと、藤の花の家紋を掲げました」
「ふうん、そうなんだ」
「……申し訳ありません。つまらない話をしてしまいました」
「つまらないなんて、ひと言も言ってないけど」
「それに、わたくしばかり喋ってしまって……」
「当然だろう、僕が訊いたんだから」
「それで、あの…、時透さまは、」
が首を傾げ、か細い声音で僕に訊く。
「僕は──、」
僕は自分と家族の一切を彼女に話した。父さんのこと、母さんのこと、双子の兄さんの、有一郎のこと。僕が日の呼吸の子孫であること。お館様に助けられ、柱を目指したこと。今まで、自分から進んでこんな話をしたことはなかったけれど、何故か彼女には話しても構わない、むしろこれまでの僕の人生の全てをきいて欲しいとさえ思った。
「お兄さまは、今も貴方の中に、きっと生きています」
そして、これからもずっと。
だって、時透さまの目も耳も、手足も、皆ふたつずつ有りますでしょう?
は僕の話を理解したのかしていないのか、奇妙なことを言って、にっこりと微笑んだ。盛り上がった頬は陽に照らされ薔薇色に輝いている。その健気な表情に僕は見惚れ、泉のほとりで水面に手を浸す彼女の美しい姿を思い出した。そうして徐々に彼女の放った不可思議な言葉の意味を理解した僕は、膝の上に置いていた手を手のひらが見えるよう上向きにして、厚く固い皮膚や細かく刻まれた皺の数々を見詰め、思った。
僕たち、漸く救われたね。兄さん。
「
、手を出して」
目の前に差し出された彼女の左手を、両手で包むように触れる。日頃の家事で水分を奪われ粉を吹いた肌は、がさがさしていて、ところどころ皮膚が引っ掛かる感じがある。関節の部分には深い皺が幾つも重なり、赤い傷が痛々しい。
「あの……、」
僕があんまり長く見詰めていたので、
は恥ずかしがって、差し出した手を引っ込めようと抵抗したが、僕が鋭い視線を彼女へ向けると、諦めたように脱力し、押し黙った。
「君の手は、家仕事をするひとの手だ」
僕は円を描くようにして、
の手の甲を撫でた。割れ物に触れるときのように、そうっと撫でた。彼女の手はひどく乾燥してはいるけれど、ふっくらと肉付き、丸みを帯びている。爪は短く整えられ、繊細な指先をしている。
「貴方は、優しく、強い、剣士の手をしていらっしゃいます」
そう言って、彼女の右手が僕の手に重なる。俯いた横顔は、柔和な笑みを湛えている。鬱蒼とした森に囲まれたこの明るい縁側に、僕たちのほかには誰も居ない。小さな雲が、遥か遠くの空を揺蕩っているだけだ。
が夕食の支度のためにお婆さんに呼ばれるまで、僕たちはずっと、互いの手を握り締めていた。
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武満徹: 雲
2020.03.13