4. 乞う手







──僕らは二人っきりだった、
僕らは夢見心地で歩いていた、
彼女も僕も二人とも、髪の毛も胸の思いも、
吹く風になぶらせて。




 鎹鴉からの伝令を受け、次の朝、僕は此処を発つことになった。就寝前、白湯を届けに部屋へ来たにそれを告げると、彼女は目を伏せ、「そうですか」と呟くように言ったきり、何も言わなかった。心なしか声は震えているようだった。



***




「ご武運を」

 薄暗い靄の掛かった明け方、灰色の空を見上げて深く息を吸う。冷えた外気が鼻腔を通り抜け、肺の奥まで浸透していく。吸い込んだ空気をすべて吐き出すと、心臓の鼓動が体じゅうに伝わる。
 湿った空気に切り火の音がカチカチと響き、小さな火花が散る。


「何でしょう」
「あの森の入り口まで、僕と一緒に来てくれる?」

 は困惑した顔でお婆さんの方を伺った。お婆さんは僕を迎え入れた時と同じように、ゆったりとした動作で微笑み、肯いた。
 もう二度とお会いできないかもしれないのだから、お見送りして差し上げなさい。
 お婆さんの笑みには、そんな意味が含まれているような気がした。


 僕たちは二人きりで狭い野道を歩いた。は躊躇いながらも、僕の半歩後ろを黙って付いて歩いた。僕が立ち止まって振り返ると、彼女も立ち止まった。小さな砂利を踏む音が、寂しげに聞こえた。

「手」
「え?」
「手、出して」

 おずおずと頼りなく差し出された手を握り締め、僕はまた先を歩いた。はそれに引っ張られるようにして下駄を鳴らし、歩調が乱れると握った手に強く力を込め、勇んで速まる僕の足並みを緩やかに鎮めた。


「僕の知り合いに、薬の調合をしてくれる女の人がいるんだ」
「はあ」
「君の手に効く塗り薬を作って貰おうと思うんだけれど」

 は何も言わなかった。感激と感謝の言葉を待っていた僕は、少し不満な顔をして振り返った。は恥ずかしそうに俯いて、下を見ていた。視線の先は分からなかったが、繋いだ手を見詰めていたのだろう。何か言いたげに、ちらちらと僕に目を遣っては口籠る。

「僕が何か気に障ることでも言った?」
「いえ、そんなことは……」
「それともほかに欲しい物があるなら遠慮なく言ってよ。君の為に僕が出来ることなんて、これぐらいなんだから」
「では、わたくしの望みを、聞いてくださいますか」


 また、生きて、此処へいらしてください。

 はそう言って鼻を啜り、真っ直ぐに僕を見た。仄かに赤い鼻先や目尻に、泣いているのかと思ったけれど、彼女の心からの笑顔を見て、訊ねるのはやめた。

「それはちょっと、約束出来ない」

 僕は正直に応えた。果たせない約束ほど悲しいものはない。それはきっと彼女も理解していることだ。それでも、彼女は僕の応えを聞いてなお、笑顔を崩すことをしない。先刻までぐずぐずと煮え切らない態度をとっていたのに、ひとたび決心してしまえばその心は強く、僕は彼女を、甚くあたたかい人だと思う。

「はい」

 返事とともに、目に溜まった涙が頬を伝う。
 別れの涙だと悟る。


「でも、もし此処へ戻って来ることが出来たなら、そのときは縁側で一緒にお茶を飲もう」
「はい、是非」

「はい」
「僕より先に居なくなったら駄目だよ」
「……はい」
「さよなら」
「時透さま、どうかご無事で」

 鬱蒼と暗い茂みを眼前にして、繋いでいた手はやわらかく解けた。は着物の裾で赤く腫らした目を擦りながら、茂みの外の、薄く陽の当たり始めた道端に佇んでいる。僕はただひたすらに前を向いて、振り返らずに歩いてゆく。

 森の樹々が僕を包み、すっかり闇の中へ飲み込んでしまうと、今が朝なのか晩なのかも判然としない。仄暗い静寂の中でゆっくりと目を閉じれば、彼女の明るい笑顔が、目蓋の裏にまざまざと映し出される。僕を呼ぶ声、風に流れた後れ毛を拾う指、握った手の温度、と過ごした束の間の出来事すべてが、鮮明に蘇って来る。





「緊急招集、緊急招集──ッ!」

 鴉がけたたましい鳴き声を上げ、産屋敷邸の襲撃を告げる。
 突然に、僕の体に寒気が走る。
 悪い予感がする。

 僕は頭を振り、冷静な思考を取り戻して、お館様の元へと急ぐ。武者震いだろうか、それとも怯えているのだろうか、鼓動は激しく、血は滾り昂っている感じがするのに、ひどく寒い。凍える手のひらを見詰め、僕は君の言葉を思い出す。
 思い出し、闘う。

 僕の手は、剣士の手だ。







end.
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'恋ふ手'
2020.04.01