ワルツを 前







 わたしは、どうしてこんなに場違いなところへ来てしまったのだろうと後悔しながら、気を紛らすために頼んだフルーツ・カクテルを、ひと思いに飲み干しました。まるでジュースのような、櫛形に切られたオレンジが添えられた鮮やかな黄色のそれは、甘い飲み口とはうらはらにアルコールの度数が高く、嚥下した途端、食道や胃のあたりが火傷でもしたように、かあっと熱くなっていくのを感じました。ねっとりと舌に絡みつく果汁を口のなかで何度か捏ね繰りまわして、いつものわたしだったら、いまごろは自室に籠もってあたたかい紅茶でも飲み、ふかふかした寝台の上で毛布に包まり、読みかけの小説のページを暢気にめくっていることだろうと、なんでもない自分の日常をすこし羨ましく思いました。

 使い込まれた小ぶりな円形の木製テーブルにお行儀わるく肘をついて、ぼうっとする頭を支え、目の前の、ダンス・ホールと化したカフェーの古びた床や天井、窓やそれを縁取る花柄の刺繍の施されたカーテンを、そのどれにも焦点を合わせることなく眺めていると、やっぱりいくら眺めても場違いなように感ぜられてくるのでした。そうしてわたしをこんなところへ誘い出した友人を探し出して見れば、彼女は大変に舞い上がって、大学生の、御曹司と思われる、いかにもお家柄のよさそうな、それでいて大人の嗜みというのを早々に経験していそうな男性に声を掛けられ、とても楽しそうにステップを踏み、優美なターンを決めているのでした。その姿があんまり楽しそうだったので、わたしもつられて、つい顔が綻んでしまいました。


 壁の花となったわたしは、からだの火照りが収まるまでのあいだに、素晴らしくダンスの上手な、ひとりの男性を見つけました。色白のその男性は、上質そうな紺色のスーツを身に纏い、相手のけばけばしい、背中のおおきく開いた洋服の淫売じみた女を、優しくリードしていました。
 おそらく彼のほうから声をかけたのではないのでしょうが、わたしは彼の紳士的な立ち居振る舞いやすらりとした背格好、西洋人のような目鼻立ち、神秘的な微笑、袖口からのぞくしなやかな手に、うっとりと視線を送りました。そして何度か目が合うと、まるで何事もなかったかのように、視線を逸らしました。


「どなたかと、お待ち合わせですか」

 曲が終わり、それまで踊っていた人たちがばらばらと壁際へ捌けてしまうと、驚いたことに、さきほどの、紺色のスーツの男性がわたしのいるテーブル席に颯爽と近寄り、向かいの椅子へ、躊躇なく腰かけたのでした。

「え、あの…、いいえ……」

 わたしは空いたグラスを手元に引き寄せ、何を話したら良いか分からずに、グラスの底をじっと見詰めました。彼はわたしのグラスを見てから、「何か飲み物を頼みましょうか」と言い、手を挙げ、ひらひらと軽く靡かせて、ボーイを呼び止めました。

「私はウイスキーの炭酸と、お嬢さんは……」
「わたくしは、先刻と同じものを……」


 飲み物を注文してからそれらが運ばれてくるまでの間、わたしたちのあいだには緊張感から来る妙な沈黙が漂っていました。

 わたしは彼を見つけてからというもの、ずっと彼の姿ばかりを追いかけ、見惚れていたので、もしかしたら彼がそれに気づき不快に思ったのではないかと、心配でなりませんでした。考えてみれば、他人からじっとりとした視線を送られ不快に感じるのは至極当然のことであり、ならばこちらから謝るほかないと、わたしは意を決して彼へ話しかけようとしましたが、それは彼の問いかけによってあっさりと遮られてしまいました。

「先程のワン・ステップではずっと座ったままでしたが、どこか具合でも悪いのですか?」
「いえ、あの、こういった場所が不慣れなものでして、ダンスもまだまだ初心者ですし、今日も、あすこにいる友人に連れてきてもらったんですけれど、着いたとたんにどうも気が乗らなくなってしまって……」
「そうでしたか」

 彼は優しい口調で相槌を打って、ボーイの運んできた飲み物をわたしへ手渡しました。わたしはいよいよ謝らなければ、と、言葉をつづけました。

「あ、あの、先程わたくし、貴方のダンスがあんまりお上手でしたので、失礼ながらじいっと眺めてしまいまして、あの、非常に不愉快な思いをさせてしまって、お恥ずかしい……、ほんとうに、申し訳ありません」


 彼は炭酸の細かな泡が浮かぶグラスを丁寧な所作で持ち上げ、ひと口だけ含み、美しく突き出た喉仏を艶めかしく上下させて飲み込んだかと思うと、にっこりと慎ましく微笑みました。

「それは光栄だなあ。実は私も、随分と美しい丸帯の、楚々としたお嬢さんがいらっしゃると思い、遠くから眺めていたんですよ」

 思ってもいない言葉をかけられ、わたしのからだはうれしさと緊張とで強張ってしまい、返す言葉など、まるで浮かびませんでした。彼はウイスキーのグラスを傾けながら、顔を真っ赤にしたわたしを見て「おやおや」と笑い、フルーツ・カクテルを飲むように勧めました。わたしはまた、グラスの持ち手をぎゅっと掴んで、ひと思いに飲み干しました。先刻もまったく同じものを飲んだというのに、たったいま飲み干したそれは、ただ甘ったるいだけで、アルコールや果汁のどろっとした感触や、果実独特の爽やかなにおいなどはちっとも感ぜられず、味覚が狂ってしまったようでした。


「お嬢さん、私は、今日はもう帰らなくちゃいけないけれど、次に会えたときには、是非一緒に踊りましょう。私は毎月、月末の土曜の夜七時半から、此処に参加しています。よければまたお会いしましょう」

 そう言って、彼はまだ半分も飲んでいないウイスキーのグラスをテーブルの隅へ置いて席を立ち、白い中折れ帽子と上着を持って、ホールを出てゆきました。わたしはカクテルのグラスの持ち手を指先で弄びながら、彼の言葉を反芻し、不意に、もう二度と彼に会えないのではないかというような気がして、あわてて立ち上がりました。なにか話さなければいけないと、酔った頭を一所懸命に働かせて、やっとのことで思いついた質問は、ごくごく月並みのものでした。


「あの、差し支えなければ、貴方のお名前を……」
「ああ、そうでしたね。大変失礼しました。私は、月彦と申します」

 彼は片手で中折帽子を浮かせ、わたしへ浅くお辞儀をし、雑踏のなかへと消えてゆきました。その後ろ姿は、さながら活動写真の俳優のようにも見えました。


 月彦さん。

 わたしは彼の名前をつぶやき、まっさらな空気の紙に指で書き留め、そうしているうちに、自分の名前を伝え忘れてしまったことを思いだしました。ホールの向こうから友人の、けらけらと明るく華やかな笑い声と、床を踏み鳴らすいくつもの靴音がきこえ、わたしは踵を返してふたたびダンス・ホールへ戻りました。わたしは月彦さんともういちどお会いして、一緒に華麗なダンスを踊るために、いますぐにでも練習が必要でした。







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2019.11.01