ワルツを 中







 それから、わたしは毎週、週末になるとダンス・ホールへ──というのは夜の顔で、昼間は退屈な味の西洋料理や苦味の強い珈琲を出す、平凡なカフェーなのですが──通い、彼との再会を待ちわびながら、声をかけて来る男たちを次々に取り替え、踊りつづけました。

 おかげでわたしはたくさんのステップやターンを覚えましたし、相手の体格や手足のうごきの癖に合わせて、自分のからだの方向や手の位置、動作のタイミング、歩幅を変える技術なんかも習得しました。数をこなせば慣れや自信もおのずと身につき、かつての壁の花だった自分はどこかへ消え去ってゆきました。また或るときには、煌びやかな衣装に白粉を塗りたくって、身なりだけは一人前な年増の女から、「まあ、たいへんにお上手ですこと。さぞお暇を持て余していらっしゃるのね」と皮肉まで貰うほど、わたしは上達してゆきました。

 わたしに声をかける男たちのなかには、ダンスの前後に食事やお茶でもどうか、買い物へでも出かけないかと誘う者もしばしば現れましたが、わたしはそれらを丁重にお断りして、ひたすらにダンスの相手を務めるのみでした。なぜなら、わたしの頭のなかは、いつだって月彦さんのことでいっぱいだったのです。これらすべては彼とのダンスを悔いなく成功させるための、単なる実践演習に過ぎないのでした。


 ダンス・ホールに通うようになってからというもの、上達の度合いにつれて、わたしのよそ行きの着物はどんどん増えてゆきました。彼に再会したときのことを考え、同じ着物はつづけて着ないことに決め、そのために桐箪笥をもうひと棹購入することになりましたが、年頃の娘でありながら元よりそういったお洒落にあまり頓着していなかったわたしの、このような心変わりに、両親はきっと恋人ができたのにちがいない、色恋に疎かったこの子にもようやく婚期が訪れたのだと喜び、いつにも増してわたしを甘やかすようになりました。
 それでも、夜の街には野蛮な男もうろついているのだから、そういった男には決して引っかからないよう、くれぐれも用心するようにと、出掛けるときには口酸っぱく言うのでした。



***




 わたしがあんまり演習に明け暮れていたので、彼との再会は存外あっさりと、そして随分と早かったように感ぜられました。

 彼は茶色のスーツを身にまとい、わたしはからし色の、一見すると無地のように見えるけれども、裾や袖に何羽もの鳳凰が飛び交う刺繍の施された着物に、蝦色の緞子の丸帯を締め、お互いに再会を祝してグラスを鳴らし、身なりを褒め讃えながらステップを踏み、会えなかった時間を埋め合うようにぴったりとからだを寄せて、まさに夢のような時間を過ごしました。

 再会してすぐに、わたしはあのとき言い忘れてしまった自分の名前を彼へ伝えましたが、それでも彼はわたしのことを相変わらず「お嬢さん」と言い、十回に一回程度の割合で「別嬪さん」だの「お姫さま」だのと恥ずかしげもなく呼び、そのたびにわたしの困惑した表情を見て、悪戯好きの少年のような目をして、愉しんでいるのでした。


「お嬢さん、踊りましょう」


 ワルツの最中、彼はわたしのほうへ頭をかしげ、低く落ち着いた、優しい声を耳元へと吹きかけました。わたしはこれまで男性と、ましてや意中のひととこんなにも近い距離で顔を突き合わせたことなどありませんでしたから、うっかり心臓が飛び出しやしないかとどきどきして、気が気ではありませんでした。

「お嬢さん、以前は不慣れだから気が乗らないなどと仰っていましたが、お上手なんじゃありませんか」
「いえ、そんな……」
「それに、とても綺麗だ」


 わたしは「貴方と素敵に踊るために、毎週末、練習に通い詰めましたのよ」とは、とても恥ずかしくて言う気になれませんでした。

 彼のリードは素晴らしく紳士的でした。力強くもあり、それでいて手荒くなく、相手を思いやる優しさも持ち合わせており、なにより近くで見る月彦さんは、遠くから眺めているのとはまた違う魅力がありました。細やかな所作はこの上なく高貴なお方のようにも思えましたし、肌理細かく白い、しなやかな肉体は凛々しさと艶やかさを併せ持ち、わたしは踊りながら、恍惚とした気持ちになりました。


「これほどまでお上手とは、ほかの男性からも、よっぽどお声が掛かったんじゃないですか」
「ええ、まあ……」
「ああ、やっぱり」
「で、でも、わたくしはどうしても月彦さんと踊りたくて、あくまで練習として、その、お相手をしておりました」
「それはそれは、うれしいことを仰いますね」

 そのとき、わたしの手を握る彼の力が、心なしか強くなったように感ぜられたので、顔を上向け、彼を覗くと、彼はわたしを見下ろし、にっこりと微笑んで、ふたたび顔を寄せました。寄せられた彼の顔や手はいくら踊ってもひんやりとつめたいままで心地良く、また、わたしの火照った体温をすぐに奪ってしまうので、周囲の人にわたしの真っ赤な顔を晒すことはなく、わたしにはそれがたいへん助かりました。


「次回はダンスの前に、お食事などはいかがでしょう。貴方と、もっと同じ時間を過ごしてみたいのですが……」

 耳元で囁くように彼が言うのを、わたしはうっとりしながら聴き入り、震える声で「はい」と、ぎこちない返事をしました。すると彼は、先刻よりもぐっと顔を近づけて、いまにもわたしの耳朶へ接吻しそうな具合で、「では、来月は日没直後に、この店の前で落ち合いましょう」と言い、腰へ添えていた手でわたしを抱き寄せました。わたしは突然のことにだいぶん驚きましたが、一向に終わる気配のない甘美な三拍子の途中で、ひとり硬直し立ち止まることなど出来ずに、わたしの練習をかさねた華麗なステップは見事に崩れ、ふらつく足取りをなんとか堪え、彼の腕へ必死でしがみつきました。彼の手入れの行き届いた、艶々と輝く革靴の先と、わたしの草履の先とが、華やかな旋律の合間にコツコツとぶつかり、わたしは進行方向を見据えながら、小声で何度も謝罪の言葉を吐きました。

 彼は冷ややかな手で狼狽するわたしを支え、三日月のように目蓋を細め、唇の端をゆるやかに持ち上げて、こう言い放つのでした。


「貴方のような人に出会えて、ほんとうによかった」







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2019.11.06