ワルツを 後







 ダンスの前にお食事をするようになり、ふたりきりの時間の増えたわたしたちは、もちろんお互いの身の上についても話をしました。とは言っても、毎度、高揚したわたしが彼へ一方的に自分のことを話すのですが、それでも彼は嫌な顔ひとつせずに、わたしの話を、うんうんと頷きながら、熱心に聞いてくれるのでした。
 わたしが石油会社の重役の一人娘であること、かつての恋人には何人もの女がいて、数々の修羅場の果てに、さんざんな別れかたをしたこと、それ以来、対人関係において、ことに男性に対してひどく警戒するようになってしまったこと、それを心配した友人がダンス・ホールへ誘い出してくれたこと、そして、偶然にも、月彦さんのように優しく紳士的な、理想の男性に巡り会えたこと……。わたしは自分のこれまでの経験を、すっかり月彦さんへ打ち明けました。それから、わたしがどれだけ月彦さんのことを慕っているか、直接的でないにしても、しっかりと彼に伝わるように言葉を連ねました。

 また彼についても、いくつかわかったことがあります。若くして貿易会社を立ち上げ、経営者として手腕をふるっていることや、そのために休日であっても昼間は会社に出向かなければならないこと、これは三度目のお食事に訪れた洋食店で、ビフテキを食べているときに──月彦さんは、いつもわたしの食べたいものを食べさせてくれました。洋食のときもあれば、鰻や天ぷらのときもありましたし、あまりおなかが減っていないときには、蕎麦やうどんで済ますこともありました。味はどれも絶品で、頬が蕩け落ちるほどでしたが、彼はほとんど手をつけないで、わたしの食事の風景を、にこにこと眺めているのでした。──わたしが「昼間にもお会いしたい」と伝えたところ、判明したことでした。
 彼は、「貴方のお父上も同様でしょうが、役員というものは、目下の者が休んでいても、つねに会社のことを考えなければならないのです」と、困ったふうに笑いました。わたしは彼の、仕事への熱意ある姿勢に、ますます心惹かれました。

 そうして彼とわずかな夜の時間を過ごすうち、わたしのなかには「もっと長い時間、できることなら、彼とずっと一緒にいたい」という気持ちが湧き上がり、それは心の水瓶の蓋を突き破って、滔々と流れ出てゆきました。これはまさに、恋の氾濫でした。



***




 優雅で感傷的なワルツの音楽に揺られて、わたしたちは飽きもせず踊りました。繰り返される甘美なメロディーと軽やかなステップ、からだを駆け巡るアルコールと恋の、あまい毒に冒され、わたしは彼の手を握りしめ、溢れる気持ちを抑えきれずに、ついに自分の本心を曝けだしてしまうのでした。

「ねえ、月彦さん」
「どうしましたか? お姫さま」
「わたくし、これからも月彦さんとずっと一緒にいたいわ」
「私と、ずっと一緒に?」
「ええ、ずっと」

 すると月彦さんは演奏中にもかかわらず、わたしの手をがっちりと掴んで、ボーイに上着と帽子を持って来させると、出入り口の扉をくぐり、華やかなネオンの光が降り注ぐ夜の街へ、つかつかとわたしを連れ出して歩きました。

「この近くに、私の会社があります。そこには、私だけが使用できる秘密の部屋がありますから、今夜はそこで、つづきをします」

 いつも物腰の柔らかな彼が、はっきりとした口調で言いきったので、わたしは呆気にとられて、ただただ彼に引っぱられてゆくばかりでした。
 彼の口から零れた、「秘密」や「つづき」といった魅惑の言葉たちがわたしの脳内を溶かし、心酔させてゆく。わたしはすでに、彼の虜となっていました。




 夜の空気が鼻先を掠め、ようやく冷静さを取り戻すと、辿り着いたそこは、先刻までの賑やかな人混みや、昼間のようなネオンの明るさとはほど遠い、じめじめとした細い路地の一角でした。迷路のようなその路地には妙に白っぽい空気が沈んでいて、肉や野菜の腐ったようなにおい、糞尿や、吐瀉物の甘酸っぱい粘着性の異臭に満ち、どう考えてもこのような場所に彼の勤め先などあるはずもなく、あるとすれば、それは地獄の入口なのではないかと思うほどでした。


「あの、月彦さん」

 どこかで道をお間違えになったのではありませんか、と口を開くと、彼は急に立ち止まり、それまでの美しい顔を恐ろしいほどに歪ませて、わたしの言葉を遮断しました。

「お嬢さん、貴方は私と、ずっと一緒にいたいと、そう仰いましたね」
「……はい」
「私が鬼だとしても、そうお思いですか」
「そんな、ご冗談はよしてください。鬼だなんて、田舎の迷信に過ぎませんわ。わたくしは、もうすっかり貴方のことが好きなのです。貴方以外の男性など、もはや考えられないのです。仮に貴方が鬼だったとしても、わたくしは、きっと貴方を愛するにちがいありません」


 そう口にしたとたん、彼の顔に薄らと冷ややかな笑みが零れ、ぶくぶくと血管の膨れ上がった左手がわたしの首を掴んで壁へ張りつけ、そして右手の、ナイフのように尖った爪の人差し指で、わたしの額を突き刺しました。あまりに突然の出来事に、わたしは目と口をぽかんと開いたまま、膝から崩れ落ちました。頭蓋を貫く鋭い指先からは熱く燃え上がるような液体が止めどなく流れ、それは瞬く間に全身を駆け巡り、わたしはその腐敗したにおいに吐き気を催し、ゴホゴホと咳込み、血の泡を吹きました。からだのあちこちが痙攣し、眼球は震えながらあらゆる方向に視線を転がし、舌は腫れあがって咽喉を塞ぎ、血に塗れた口からは獣のような低い呻き声が漏れました。

 自分のからだに、いま、何が起こっているのか、わたしにはさっぱり理解できませんでした。ただひとつわかることは、わたしの目の前にいる、自分を「鬼」だというこの人は、月彦さんの姿かたちをしていながら、中身はまるっきりちがう生き物なのだということです。


「……月彦さん、月彦、さん」
「うるさい、私はもう、月彦などではない」
「ワルツを……、途中の、月彦さん、」
「まったく人間というのは、やはり愚かな生き物だな」

 深いため息とともに、突き刺した人差し指をさらに内部へと押し入れて、わたしの脳髄を掻き回しながら、彼はひどく愉快そうに、声を弾ませました。

「たまには育ちの良さそうな、栄養価の高い女でも引っ掛けて、喰ってしまおうかと思ったが、お前は面白いほどに私を信じたから、特別に鬼にしてやろう」


 再度「鬼」という言葉を聞いたわたしは、顔じゅうの穴という穴から血や涙や汗や脂や、何か得体の知れない液体を垂れ流しながら、浮腫んだ手足をばたばたと暴れさせて、奇妙な叫び声を上げました。その瞬間、彼の人差し指が汚らしい水音とともに引き抜かれ、こめかみや首すじがどくどくと音を立て、やがてわたしのすべてが、真っ暗な闇に包まれました。


「さあ、悦べ。いまからお前の名前はだ。良い名だろう」



 遠く霞んだ意識のなかで、知らない男の声がする。男の声が「」と、誰かの名を呼んでいる。何度も何度も繰り返され、しだいに怒気のこもった声になる。それは決してわたしの名前ではないはずなのに、なぜかわたしを呼んでいるような気がして来る。そうして、なぜか、わたしの名前なのだというような気がして来る。

 そんなふうに意識のなかを彷徨っていると、暗闇にぼんやりと一筋の光が差して、何処かで見たことのある中年の夫婦が、また別の名で、わたしのことを──これもまた、わたしの名前ではないと思われるのに──呼ぶ。まるでわたしを無償の愛でもって包みこむような、慈愛に溢れた男女の美しい声色。聴いていると哀しいほどに懐かしさがこみ上げて、やはり、これも、なぜかわたしの名前のような気がして来る。

 ──貴方がたは、いったい誰なのですか?
 ──わたしは、誰なのですか?
 ──わたしの名前は、何なのですか?




 自分の名前すら定かでないわたしが唯一覚えていた人の名は、彼の名でした。

「月彦さん……」
「お前はまだ下らぬ記憶に浸っているのか、愚か者」

 彼の、おおきく振りかざした手がわたしの頬を打ち、わたしの首は有り得ない角度に折れ曲がり、からだごと地面に叩きつけられました。鼻は潰れ、顎の骨は砕かれ、変形した輪郭からはいくつもの骨の破片が飛びだしました。それなのに、痛みが走ったのは手のひらの当たった一瞬で、あとは当たった衝撃から来る電流のような痺れが、肌をむず痒くさせただけでした。


、お前は月彦を、否、私を愛していると言ったな。もう一度踊ってほしければ、柱の頸でも持って来い」

 そうして彼はわたしへ唾でも吐くように、「耳に花札のような飾りをつけた鬼狩りを殺せば、考えてやらなくもない」と言い捨て、不気味な嘲笑とともに、夜の暗闇のなかへ消えてゆきました。わたしは鬼になった自分の、岩のようにかたく、赤黒く変色した手のひらをじっと見詰め、この路地から漂う腐敗と汚濁と血に塗れた地獄のようなにおいが自身からも立ち昇っているのを感じ、言いようのない絶望と同時に、ひとつの、耽美な夢を抱きました。

 月彦さん。

 わたしは月彦さんともういちどお会いして、一緒に華麗なダンスを踊るために、いますぐにでも鬼狩りの頸が必要でした。







end.
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2019.11.07