1. 図書室にて
午前の授業が終わると早めに昼食を済ませて、昼休みには図書室へ行くことにしている。教室にいるとなにかと耳障りな音まで聞こえてきて、うるさいから。でも学校にいるのになにも聞こえてこないのも、それはそれですこし怖いような気がする。ほどよい距離で喧騒がきこえてくる図書室で過ごすのは、僕にとってなんとなく安心感があった。
建てつけのわるい扉を引くと、いつも僕が座っている席には先客がいた。おなじクラスの
さんだった。
さんはふだんからひとりで過ごすことが多いみたいだった。休み時間や放課後にだれかと話をしたり、一緒に帰ったりしているところを一度も見たことがなかったし、昼休みには僕よりもはやく教室を出ていき、午後の授業開始のぎりぎりまでもどってこないことも多かった。これまで何度か図書室にきていたのかもしれないが、僕が図書室で彼女を見かけたのは今回がはじめてだった。なにかをしていてもなにもしなくてもただでさえ眠くなるこの中途半端な休み時間を、
さんはいままでどこでなにをしてやり過ごしていたのだろう。
まあ、べつにどうでもいいけど。
僕のちょっとした疑問は閉まる扉の不規則な音に一瞬にしてかき消された。
この時期にしては湿度が高く蒸し暑いせいか、今日の図書室はいつもより生徒の数が多かった。図書室は空調がきいているから、みんな快適をもとめてここに逃げこんでいるのだろうとすぐにわかった。
さんもきっと例外ではない。ある意味では僕だっておなじだ。僕はひととおり空いている席を見渡したがどこに座っても集中できそうになかったので、仕方なく
さんのとなりに座った。
「となり、いい?」
「うん、もちろん」
さんは前かがみになって椅子からわずかに立ち上がり、座りなおすのと同時にすこしばかり僕と距離をとった。
僕はなんだか居心地がわるいまま、読みかけの本を取りだしてひらいた。なぜかとなりの
さんが気になって本の内容に集中できず、ページをめくるのにいつもより大幅に時間がかかった。
さんは筆記用具を机の上にひろげて、きのうが提出日だったはずの数学の課題をやっていた。正しくは、やっているふりだった。
「これ、提出しないとだめみたい」
僕の視線に気がついたらしい
さんが、図書室にふさわしい声量で話しだした。右手にはシャープペンを握り、左手は頬杖をついて課題を眺める彼女の横顔は、ちょっと笑っているみたいなふうだった。声の感じから僕に向かって話しかけているのだとなんとなく察し、そりゃ宿題なんだから提出しなきゃだめに決まっているだろうと思ったけれど、言葉を返すタイミングを逃してしまって黙っていたら、
さんは顔をあげて僕の目をじっと見つめ、それから僕の読んでいる本を見た。僕はとっさに本を閉じてしまった。しおりもはさまずに。
「その本、おもしろい?」
「うん、まあ……、」
「そうなんだ」
僕は本の表紙を見た。てのひらの熱ですこしあたたかくなっているその文庫本は、パソコンのペイントツールとかによくあるカラーパレットのなかで唯一まともな色がこれだったみたいな単純な色あいのグラデーションに、これもまた古くさいデザインの書体で本のタイトルがななめにおおきく書かれていた。なんてことはないただの文庫本だ。僕はブックカバーをしてくるべきだったと後悔した。
「そういう純文学系の本が好きなの?」
「べつに好きっていうわけじゃないけど」
「ふうん」
◇
さんが母子家庭だということは入学したときから知っていた。でも理由までは知らなかったし、べつに知ろうとも思わなかった。
公立の中学校から進学してきた
さんは、はじめの頃、そのことでクラスのなかではさまざまな憶測が飛び交って数日のあいだ噂話の的になっていた。父親が死んでしまったのだとか、近界民に攫われてしまったのだとか、母親が幼い
さんを連れて逃げてきたのだとか。僕はクラスメイトというだけで、
さんと親しいわけでもないし、
さんの家庭環境のことは何ひとつわからなかった。
さんはそのことについて何も話さなかったし、話すつもりもないようだった。しだいに話題にする人は減っていき、しばらくすると誰も
さんが片親であることを口にしなくなった。
さんは、日頃からあまり目立つ方ではなかった。宿題は提出期限を守れないことがときどきあるようだけれど、頭がよすぎることもなければ、わるすぎることもない。運動もできすぎるわけじゃないし、かと言って極度の運動音痴でもない。極端でないために、あまり目立つことがなかった。それ以前に僕は、憶測で彼女の話をする人たちにも、彼女自身にもあまり興味がなかった。
◇
「わたし、前から思ってたんだけど」
ふと思い出したように
さんが言った。
「菊地原くんの髪って、きれいだよね」
「ええっ、なにそれ……、」
僕は自分の髪についてたいして意識したことがなかったので、
さんにそんなところを見られていたのだと思ったらなんだか恥ずかしいような、見られたら困るような、複雑な気持ちになって思わず両手でがしがし頭をかいた。
さんは眠そうな、脱力した笑顔で「きれいだよ」と言うだけで、決して手を伸ばしてさわろうとはしなかった。髪のことだとわかっていても、自分をきれい、という言葉で形容されたことがなかったので僕はなんだかわけのわからない気分だった。
「ごめんね、いきなり変なこと言って」
「べつに……、」
さんの数学の課題は、とても終わりそうになかった。意図的に先延ばしにしているようなやる気のなさがわかりやすく見てとれた。僕がいっこうに進まない彼女のシャープペンの先を見ていると、また目が合った。僕はすぐに目を逸らし、うっかり閉じてしまった文庫本のページを適当にひらいた。
「わたし、学校ってきらい」
「だからって提出しない理由にはならないでしょ」
そうだね、と言って
さんは笑った。ひんやりとした図書室に明るい声がみじかくひびいた。周囲の人の視線がそのときだけ僕と
さんのところに集まり、その反応に自分が思っていたよりも声量が大きかったと感じたのか、
さんは驚いた様子ですぐに口を閉じて、それから僕のほうを見てはにかんだ。彼女のやわらかそうな髪の隙間から、赤く染まった耳が見えた。
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2025.05.21