2. 天の河







 それから僕たちはたびたび図書室で話をするようになった。さんは雨の日にここへ来ることが多いというのもわかった。

 梅雨の時期には毎日のようにここで話をして過ごした。話といってもたいていはさんのおおきなひとりごとのようなものに僕が適当な返事をしている感じだったが、お互いにうんざりするようなことはなかったし、沈黙に耐えられないということもなかった。彼女はここで本を読むことはほとんどなく、だいたい課題か午後の授業の小テストの予習などをしていた。


 これは何度目かの彼女との会話でわかったことだけれど、彼女は体育館に向かう途中の、中庭の片隅に置かれた植木鉢でバラを育てているらしかった。中庭は用務員が管理しているのだけれど、その植木鉢には何も植えられていなかったので、空っぽでかわいそうだから、と園芸店で見つけたバラを植えたものの、バラは他の花々に比べて繊細で、虫がつきやすく、肥料や水やりなどの手入れを頻繁に行わなければならず、思っていたよりも大変なのだと楽しそうに話した。そのために休み時間にはたびたび姿を消しているのだった。

 いまが花盛りなんだよ。
 さんはいつも一度話し始めると、それまで黙々と動かしていた手がぴたりと止まり、話すことに夢中になっているようだった。そして僕も彼女と話をしていると本を読むはやさが極端に遅くなった。それでもわるい気にはならなかった。


 彼女の話を聞いてから、僕は体育館へ行くときには中庭の隅のほうに目を向けるようになった。注意深く見なくとも彼女のバラの花はすぐに目についた。地植えされた木や、春の盛りを終え青々と茂る花壇の片隅に、茶褐色の植木鉢が場違いのように佇み、薄いピンク色の小さな花びらが重なり丸みを帯びて、いくつもいくつも咲いていた。






 梅雨が明け、さんのバラたちは見る見るうちに花弁を落としていき、しだいに蝉の声が盛んに聞こえてくるようになった。空は高く、これまでよりいっそう青さを増しているように思った。


 おおきな入道雲が悠然と流れていた期末テストの期間に、さんはふたたび学級内で話題のひとになった。数学のテストを白紙で提出したのだ。

 もちろん彼女は放課後、担任と数学の先生にそれぞれ呼び出された。また別の日の放課後に彼女が母親に連れられ職員室へ向かうところを部活動中のクラスメイトが見かけたらしいが、そこからは話があいまいになって終わった。

 そうしてさんは期末テスト後から学校に来なくなり、僕たちは顔を合わせることのないまま、夏休みに入った。



 僕を含めたA級隊員の何名かは、一週間ほど遠征で授業に出られない期間があったため、夏休み中に特別補講を受けることになっていた。僕は面倒だと思いながらも、制服に着替えて学校へ向かった。タブレット端末などを使用して自宅から補講を受けることもできたのだけれど、僕はなんとなく学校に行ったほうがいいような気がした。きっとさんも例の期末テストの件で補講を受けに来ているはずだと思ったのだ。



 やはりさんは、補講のために登校していた。それは当然僕たちが受ける内容とはまったくべつのもので、教室もべつだった。

 廊下から彼女のいる教室のほうを見やると、彼女は数学の先生とふたりきりで、なかは冷房が効いているはずなのに、息苦しく重い空気を感じさせた。
 さんは机上の設問用紙に齧りつくようにして顔を伏せ、ひたすらに手を動かし、問題を解いていた。先生は彼女から少し離れた教卓に座ったまま、上級生向けの参考書を読んで時間を潰しているような感じだった。わからないところがある場合にのみ、さんのほうから声を掛けているのだろうと僕は思った。


 ふいに、顔を上げた彼女と目が合った。そんなに長く見つめていたわけじゃないのに、僕は驚いて目を見開き、一瞬、呼吸が止まった。彼女はシャープペンを持っていないほうの手で僕に向かってちいさく手を振った。


「図書室で待ってる」

 掠れるような、彼女の声にならないほどのささやきがまっすぐに僕の耳に届いた。



 僕は補講のあとで図書室に寄った。一教科だけの彼女のほうが早くに終わり、僕は彼女に向かい合うように席についた。

 夏休みの図書室はとても静かだった。当番制で受付をしている図書委員の生徒はふたり居て、どちらも眠そうな顔をし、扉を開けたときだけこちらを見て、それからは僕らに見向きもしなかった。


「なんだか久しぶりだね」
「待たずに帰ればよかったのに」
「待ってないよ」

 バラを見ていたとさんが言った。
 僕は鉢を日陰に移動し、愛おしそうに水やりをする彼女を思い浮かべた。


「菊地原くんは知ってるの?」
「何を?」
「このあいだの、テストのこと」
「テストのことって?」
「その、わたしの……」
「君のこと?」
「うん」
「ああ……、べつに、細かいことは聞いてないけど、だいたいのことは知ってる」
「そう……」

 さんは少し恥じらいのある微笑みを浮かべて、俯いた。黒く長いまつげが扇状に美しく生え揃っているのが見えた。


「わたしのこと、馬鹿だなって思う?」
「まあ、そうだね」

 そう言って僕が小さなため息を漏らすと、さんは顔を上げ、こんどは開き直ったような清々しいまでの笑顔をして言った。
 わたしね、学校辞めようと思ってるんだ。


「もともと父親が、進学校に行けってうるさくて。でももう、うるさく言う人いないから」

 お母さんも家事をやってくれるなら助かるなんて言ってくれてるし、と彼女は急に早口になって僕に伝えた。僕は辞めたいなら辞めればいいんじゃない、とだけ返した。これは彼女が決めるべきことなのであって、僕が決めることじゃない。おそらく人生ではじめてかもしれない大きな決断を下した彼女の目元や頬は、艶やかに紅潮していた。


「ねえ、もしよかったら、今日うちに来ない?」
「いまから?」
「うん。うちにも、本いっぱいあるの。図書室ほどじゃないけど」

 突然の誘いに僕は内心戸惑った。
 僕は女の子の家に上がったことがないのだ。


「うちで読もうよ、一緒に」


 今日は特別補講のため、任務もミーティングも入れていない。予定なんて何もないとわかりきっていたのに、すぐに返事をするのを躊躇った僕はスマートフォンを取り出しスケジュールを確認するふりをした。

「いいけど」






 さんの家は危険区域の近くにあった。
 あまり新しくない平屋建てのその家は外壁が白く塗られていて、玄関の扉も白っぽい木目調だった。ところどころに金属の錆びた色が壁を伝って垂れていた。

 彼女が玄関を開けると知らない人の家のにおいが僕の鼻腔に飛びこんできた。なんだか懐かしいような、木材や植物のようなにおいがして、それは彼女の制服や鞄からするにおいと同じだった。


 玄関を上がって右手側にある廊下を進んだ先に部屋があり、彼女は僕をその部屋へ通した。
 そこはこの家にしては充分なほどの面積を持ち、窓のある面以外の壁を書棚で埋め尽くされていた。さんは、この部屋は父親の部屋で、本もすべて父親のものだと言った。買ったばかりのような新しさを保っているものもあれば、古びて角がぼろぼろになり、色褪せているものもあった。作家別に分類され、整然とならべられた本たちはいまにも僕らを飲みこんでしまいそうな、妙な緊張感のある静けさで迎え入れた。僕はどこへ視線をやっていいのか分からず、知っている作家の本の背表紙をひとつずつ眺めていった。


「このまえ菊地原くんが読んでた小説、わたしも読んだことあったんだ」
「読んだことなさそうに質問してきたよね」
「うん。ちょっと苦手だったの。あの本の主人公、むかしの恋人と再会して出て行っちゃうでしょう。あれがなんだか、お父さんみたいで」

 彼女は僕が読んでいる小説と同じものを、書棚から取りだしてぱらぱらとページをめくった。まるで遠くを見るように文字を追いかける彼女の目には喪失感からくる寂しさのようなものが潜んでいる気がして、僕はなんとなく目が離せなかった。それからさんはその本を元の場所にもどし、次々とべつの本を手に取ってはページをめくり、またもどしていった。


「遊びに来てくれたお礼に、好きなの一冊あげる」
「これ、お父さんのなんでしょ」
「大丈夫。きっと、もう帰ってこないよ」


 僕も彼女と同じように、目についたものを適当に手にとり、目次を見、気になるページを開いては少しずつ読んでいった。そのなかで、タイトルや冒頭の一文だけは聞き覚えがあるけれど、まだ読んだことのない小説があった。さんが話しかけてきたとき、僕はそれを床に座って読んでいた。窓から差す陽の光が、長い影を作った。


「その本にする?」

 いつの間にかさんは僕のとなりに座り、覗きこむようにこちらを見ていた。彼女の影の一部が僕の影に重なるようにして、その部分だけ色が濃くなっていた。僕は彼女のほうを見ることができずに、軽く二度ほど頷き、本を読むのに集中しようとした。


「きれい」

 さんは前にも図書室で僕にしたように、そっと僕の髪に触れた。窓の光が僕の頭に当たってあたたかくなっていたから、髪の毛も明るく透けていたのだと思う。僕は何も言わなかった。慣れたわけじゃない。


「いやだった?」

 彼女の問いにやや間を置いて、僕は嫌じゃない、と答えた。
 部屋に舞う細かな塵が、午後の陽光に照らされちいさな星々のように輝いていた。僕がゆっくりと顔を上げ、彼女を見ると、柔らかな白い指先が僕の顔の横の髪になめらかに差しこまれた。それから撫でるようにして、髪が耳に掛けられた。僕の耳はたぶん、かなり赤くなっていたと思う。

 そうして何度か彼女の指が僕の耳を掠めるとき、そのわずかな瞬間耳に触れる乾いた音が、不思議なほどに僕の体のなかに響き、それはなんだかくすぐったいような、心地よいような、うまく言葉にできないけれど、内側の深くて繊細なところがざわざわと震えるような感じがあって、気がつくと僕は彼女の薄く開かれた唇をぼんやりと見つめていた。そして彼女もまた僕の唇を見、それから僕たちは至近距離で互いの視線を絡ませた。そこにはなにか粘着質な甘い膜のようなものが纏わりついているように感じられた。


 そのとき、さんのスマートフォンの着信が鳴った。驚いてすぐに手に取ると、相手は母親のようだった。彼女は夕食についてのみじかい会話をしたあと、申し訳なさそうに僕を見て言った。お母さん、もうすぐ帰ってくるって。僕は本を鞄に押し込み、玄関に向かった。


「また来てくれる?」
「わからないよ」
「わたし、学校はきらいだけど、菊地原くんのことはすきだよ」


 だから、また来てね。
 さんが言い、靴を履いた僕は振り返らずに、暇だったらね、と言って足早に彼女の家を出た。玄関の扉が閉まるまでずっと、背中に彼女の視線を感じた。僕は歩きながら、彼女に触れられたところをがしがしと掻き、それから彼女がしたのと同じように、髪に触れ、耳に掛けてみた。あのときと同じような感覚には、少しもならなかった。







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2025.06.17